2020年2月12日水曜日

ミニマリズム

最近,ミニマリストについて考えることがある。いろんな物に囲まれて,探し物をしている時間が長いからである。誰だったか,「人生の大半は探し物をしている時間である。」なんて言っていたが,私もその一人である。て言うか,大量消費時代の昨今,どの家でもそうした状態なのかもしれない。これでは,いけないということで,年末から年始にかけて,タンスの整理をした。引き出しをひっくり返して,必要な物とそうでない物に分けていった。中には,高校時代部活動をしていたときに来ていたユニフォームだったり,社会人になって職場でそろえたTシャツなども出てきた。それぞれに思い出があり,捨てるまでふんぎりがつかなかった。結局,思い出という諸事情により,処分できたのは5分の1程度であった。そこで考えたのであるが,処分できないのであれば,買わなければいいという結論に至った。家にあるものは,買わない。例えば,はさみ,カッター,封筒,下着等々,まだある物は買わない。そして,使えなくなった時,処分すると同時に購入する。こうしたサイクルで商品を購入すると,物に埋まることはない。これからは,このルールを守って,買い物をしていきたい。

差し込み印刷について

年末だっただろうか。仕事で差し込み印刷を使う機会があった。というのも,昨年本校から転出した児童が多く,その書類を送るのに手間がかかったからだ。転出児童は,全部で10名程であったが,住所を調べ,封筒の表書きをしたり,返信用封筒を同封したりして,結局2日ほどかかってしまった。これは,効率的ではないなと考え,パソコンで宛先を印刷できないか,ネットの中をいろいろ探していた。すると,ワードの差し込み印刷は,まず住所録を作る(ワードの差し込み印刷タグ内)こと,その後印刷する封筒のサイズを決めること,最後に先ほど入力した情報を,どこに印刷するか指定すること,この3つを指定すると,印刷できるようになることが分かった。なに分,はじめてのことだけに,最初はどういう設定をすればいいか全く分からなかった。ただ,そうした時はYouTubeで検索すると,大概それに関した動画が紹介されている。それで,YouTubeを見ながら,差し込み印刷の設定をしていった。かれこれ,1~2日かかっただろうか。ついに,差し込み印刷ができるようになった。これで,相手先の住所さえわかれば,プリンターを使って簡単に印刷できるようになる。この差し込み印刷の最もよい点は,以前入力した情報があれば,再度入力しなくてもいい点である。宛先が同じ場合,その学校を指定さえすれば,すぐに印刷できる。これまでできなかったことが,できるようになってなんとなくすっきりした気持ちになった。

2019年10月19日土曜日

粉瘤手術 02

そして,いよいよ手術の日がやってきた。前回の倍以上の大きさだったので,どれだけ痛むか心配だった。13時の予約だったが,検診が長引いてしまい,結局14時半に手術室に入った。手術室は,テレビで見たそれであった。初めは,「まさに手術室ですね。」なんて言う余裕もあったが,手術台にのせられると緊張感がだんだんと増してきた。しばらくすると,執刀医がやってきて,これから手術をすることを伝えられた。始めに,痛みがないように麻酔が何本か打たれた。しかし,注射針が大きいせいか,これがすこぶる痛かった。それが6~7本ぐらい打たれた。麻酔を打たびに,痛みは少なくなってきた。それから,いよいよメスを使った手術が始まった。腹のところには,手術の様子が見えないように布がかけられていたのだが,皮膚を通してそのようすがなんとなく伝わってきた。また,見えないことが想像力を高めてしまい,恐怖感を増大させた。粉瘤は,6~7cmほどあったので,簡単には取れなかった。途中,執刀医が,「痛いときは言ってください。」と声をかけてくれたのだが,恥ずかしさもあり最初はがまんしていた。そのうち,深い部分に達してきた。すると,痛みが断続的にやってきた。それに耐えきれず,痛いと声を出した。すると,その部分に麻酔が打たれた。しかし,切除するところが別の部分にいくと,また痛みが増し,その度に麻酔を打たれた。そうしたことが何度となく繰り返された。ついには,痛みに耐えきれず涙まで出てきた。そして,麻酔は何本うたれたか分からないくらいになった。執刀医も粉瘤を取ろうと格闘しているようだった。そうした作業を繰り返しているうちに,医師と自分との間に,運命共同体のようなものを感じた。医師は患者を助けたい,私はこの医師を信じなければならない,そうした意思の糸のようなものが伝わってきた。1時間ほどすると,粉瘤を切除することができた。しかし,今度は切除したところの縫合が待っていた。切除した部分が広かったために,これがまた痛かった。ここでも耐えきれず,麻酔を何本も打たれた。最初,数滴だった涙も滝のようにあふれて,ついには放心状態になってしまった。結局,1時間30分ほどして手術は終わった。手術は,もうこりごりだと思ったと同時に,これでもう大丈夫だという安堵感があった。その後,両親が来ていたのでロビーで面会した。私は,なんとか平静を装ったが,涙が流れていたので,そうではないということを察したと思う。そして,病院で1時間ほど休むと,帰宅してもいいと言うことだったので帰宅することにした。

粉瘤手術 01

9月になってきてから,左脇腹にある粉瘤が痛み出した。粉瘤とは,なんらかの理由で体内に袋ができ,その中に垢や体内分泌物が溜まり,その部分が膨らむ病気である。実は,30代の時も右脇腹に粉瘤ができた。それは,1~2cmほどの小さな物だった。粉瘤を見た医者が,手術で取れますよと軽い感じで言ってきた。私も違和感があったので,取ってほしいと二つ返事で答えた。そして,手術の日がやってきた。最初は,楽な気持ちで病院に入ったのであるが,手術台の上に乗せられると,変な緊張感が湧いてきた。それから,手術が始まった。粉瘤自体は小さかったにもかかわらず,部分麻酔で行ったためすこぶる痛かった。その時,この粉瘤に対するトラウマが生まれた。その経験が,今回の手術を悪化させた。違和感はあるものの,痛みはなかったので,そのまま放置していた。すると,だんだん大きくなり,6~7cmほどになった。違和感が膨らむとともに,痛みも加わった。そのせいか分からないが,熱も出てきた。これは,手術しなければならないなと思い,徳州会病院に行った。その日は休日だったこともあり,研修医らしい人が診察をした。「粉瘤ですね。水曜日に取るように外科に予約を入れておきましょう。」と言って,その日はそれで帰宅した。しかし,痛みは相変わらずで,熱も出たり出なかったりした。それから数日,痛みと熱を我慢しながら仕事に行った。そして,水曜日を迎えた。今日でこの痛みともさよならできると思い,診察室に入った。担当医(執刀医)は,私の粉瘤を見て,「これは大きすぎるので,今日は手術できないよ。後日,また日を改めて手術しよう。」と言った。その日,手術をすると言って仕事を休んできた手前,私もそのままでは引き下がれなかった。また,痛みもピークに達していた。何度か,担当医に,「今日,できませんか。」とお願いしたが,大きさが大きさだけに,それはできないとのことだった。また,申し訳なさそうに断っている姿が伝わってきて,結局土曜日に手術をすることを確認して,帰宅することにした。しかし,痛みはますます強くなり,熱も断続的に上がったり下がったりした。続く・・・

2019年7月28日日曜日

イジュンについて思う

島の幹線道路を走っていると,集落が海側を走っている所と,少し陸側に入り組んでいる所があることに気づく。亀津や平土野など,ほとんどの集落は,海に面しているが,徳和瀬や天城などの集落は,海から少し離れたところにある。「なぜだろう。」と考えてみると,それは水に由来しているのではないかと思った。人の生活には,水が必要である。飲み水,食事,農耕,すべて水が深く関わっている。それで,水源の近くに集落が形成されたのだろう。徳和瀬には,大きな池があるし,天城には,イジュンと言われている湧き水があちこちにある。イジュンは,人々の命をつなぐ物として,古くから大切に使われてきた。飲み水,食事として使われるのはもちろん,そこは子供たちの遊び場でもあった。父の話を聞くと,昔はそこで泳いだり,タナガ(川エビ)などを取って遊んでいたという。また,子供たちだけでなく,青年たちもそこで泳いだり,体を洗ったりしていたということだった。イジュンは,命をつなぐだけでなく,コミュニケーションをはかる場であったと言える。では,現在ではどうかというと,イジュンや川の周りは,草が生い茂り,人が近づけないようになっている。水道が発達し人々が使用しなくなったことで,イジュンはその役目を終えようとしている。しかし,台風等で断水したとき,このイジュンが使えるのではないかと思う。台風の通過すると,川の水が増水し,そのたびに水が濁ってしまう。湧き水は,地層によって水が濾過されて湧き出しているので,そうしたことにもならない。また,人々のコミュニケーションを図る場としても,活用できるのではないかと思う。水辺で集い,遊んだり,語らったりすることで,リラックス効果が期待できる。それは,島を離れ,再度島に転勤してきた者だからそう感じるのかもしれない。イジュンの大切さに触れ,再度その価値を見直すべく,その周りを整備していかなければならないなと思う。

2019年7月6日土曜日

経験は,正しい方向に導くとは限らない02!

この前,経験は正しい方向へ導くとは限らないと書いたが,今回は自分の反省を書こうと思う。私は,職場で緑化係をしている。特に,花が好きだというわけではないが,理科専科をしている関係で,その付録として付いてくる。当然,花を育てることになるのだが,その数が半端ない。現職場では,500個程であるが,以前働いていた所では,その倍は育てていた。その中で,プランター作りという作業がある。プランターと言えば,その中に土を入れて,苗を育てるのが定石である。しかし,近年プランターの中に,ビニールポットを4つくらい置き,そこに苗を植えるというのが主流になりつつある。他の人に,「重いので,ポットにした方がいいと思うよ。」と言われたが,土は多いほど苗の成長がいいし,なにより土の方が見栄えがいい。それで,これまでの直接土を入れる方法で作っていった。ここで,自分の経験が,足を引っ張ることになる。しかし,徳之島は台風銀座である。昨年も,たくさんの台風が島を通り過ぎていった。その度に,プランターを建物の中に避難させないといけない。ここで,重さが問題になる。土をそのまま入れたプランターは,水を含むと10kgほどになる(不思議なことに,ポットに分けて入れると,1/3程になる)。それを100近く運ぶとなると,相当な負担となる。建物に入れては出す作業を,台風が来るたびに出すことになる。私だけがしているのであれば問題はないのであるが,
他の人達に手伝ってもらわなければならないので,重さが増した分,負担が増えることになる。転機は,「重いので,ポットに入れて。」と強く指摘されたことからである。それで,やむなくポットに入れる方向に切り替えた。しぶしぶ変えることになったのだが,作業をすすめると,運ぶ手間が軽減され,結果的には楽になった。それで,これからはこの方法にすることにした。このことから,経験は正しい方向に導くとは限らないと実感することになった。

2019年6月29日土曜日

昔の記憶!

遠い昔のことだが,今でも鮮明に残っていることがある。それは,日常生活の何気ない風景なのであるが,なぜだか心に刻まれた記憶である。父方の本家は,天城の入り口にあり,周りの家より少し小高い所に立っていた。真偽の程は分からないが,薩摩から派遣されていた役人の下で働き,砂糖を集める手伝いをしていたそうだ。そのためかどうかは分からないが,家の敷地内には小さな鐘があった(私が生まれ以来,この鐘の音を聞くことはほとんどなかった)。家は,木造で建てられており,天井は瓦でふかれていた。役人の部下と言う割には,かなり質素な作りであった。また,離れた所に,比較的大きな倉庫と,豚小屋があった。そのせいで,近くに行くと,その匂いがした。ある日,私が庭で遊んでいると,道の方からおじさん達の声が聞こえた。おじさん達は,耕運機に乗っていて,そこに荷物が乗せられたるように荷台が繋がっていた。「畑に行くので,乗らないか。」そんな趣旨の言葉をかけられたと思う。私は,これは面白そうだと思い,小高い斜面を駆け下りて,その耕運機に乗った記憶がある。もちろん,耕運機なので,スピードはすこぶる遅かったが,それが妙に心地よかった気がした。そのおじさん達も,元気に暮らしている人もいるが,病気で亡くなった人もいる。今でも,車でその道を通ると,あの時の記憶が蘇ってきて,感慨深い気持ちになる。